やあ、こんにちは!
前回、雲のことをちょっと言いました。今日はその話をちゃんとします。
でもまず、告白させてください。この本、もともとクリスマスプレゼントやってん。
逃げたクリスマスプレゼント
「Cloudy」は末っ子の娘へのプレゼントとして始まりました。最近6歳になったんやけど、計画はシンプルやった。全部描いて、1冊印刷して、ラッピングして、ツリーの下に置く。パパが本を作った。子どもが開ける。みんなちょっと泣く。エンドロール。
でも人生ってそんなにうまくいかへんやろ(いつもそうやけど)。いろいろあって、締め切りが過ぎて、気がついたらプレゼントの枠を超えてしまってた。「贈り物」から「最初の一冊」に変わった。つまり、ほんまにやりたいことの始まり。
でも彼女のために作ってることは変わってへん。ただ今は、この本を手に取るかもしれないすべての子どもたちのためにも作ってる。そして、それを読んであげる大人のためにも。
20年間の読み聞かせ
英語を教えて20年になります。そのうち12年は保育園。読み聞かせは大事な時間やった。そしてうまくいった本は、「レッスン本」ちゃうかった。ただの普通の絵本で、子どもたちがのれるやつ。授業のテーマと合ってたらラッキーやったけど、本当の違いは教室が生きるかどうかやった。
うまくいった本は、子どもたちが鼻をほじるのをやめて前のめりになるやつ。僕が声色を変えて、間を作って、ちょっとアドリブして、質問して、子どもたちが何か返してくれる本。ただ座って聞いてるだけちゃう本。
うまくいった本は、楽しい本やった。「教育的でもある」とか「最後にメッセージがある」とかちゃう。ただ読んで楽しい、持って楽しい、一緒に最後までいって楽しい本。
それが、僕が作りたいもの。
教訓がポイントちゃう(たぶん)
誤解せんといてほしいんやけど、教訓が悪いとは言ってへん。色を教える本でも驚きがあっていい。数を数える本でも声出して笑えるものがある。授業で一番好きやった本は、その週のテーマとぴったり合うやつやった。
でも、教訓がつまらん本を救ったことは一度もない。本がうまくいく理由はいつも同じやった。楽しいかどうか。子どもたちがその中に入りたがるかどうか。何かを教えるかどうかは二の次やった。楽しさが先。
それが僕の作りたいもの。教訓反対ちゃう。ただ、楽しさファースト。
いつも戻ってくる基準がある。誰かが僕の本を手に取って「え、こんなことできるん?」って言ってほしい。ページがめくれたり飛び出したりする本。触れるテクスチャー。穴が開いてる本、重なる本、積み上がる本(*Go Away, Big Green Monster!*を読んだことある人はわかるやろ)。英語で表から読んで、ひっくり返したら日本語で同じ話が読めて、真ん中で出会うっていうアイデアもある。(調べたら似たようなことやってる本がすでにあったけど、それはそれでリアルなアイデアやったっていう証拠やな。深夜2時のただの妄想ちゃうかったってこと。)
物理的な本っていう媒体はめっちゃ可能性がある。そこを攻めたい。毎回ちゃうし、全部の本でやるわけちゃうけど、あの驚きの感覚? それが大きな原動力やねん。
つながりは保証つき
制作の話の下にある、僕がほんまに信じてること:
絵本から得られる一番大きな発達的価値は、中身にあるんちゃう。*行為*にある。好きな人と一緒に座って、物理的なものを共有して、一つの物語を分かち合う。その瞬間のために本がある。本はそのきっかけやねん。
学びは「かもしれない」。つながりは「保証つき」。
画面に釘付けの子どもをめっちゃ見る。それについて誰かに説教するつもりはない。家庭の事情はそれぞれやし、わかってる。でも20年子どもたちの近くにおって、画面とアルゴリズムが子どもたちの学び方や考え方を変えてるのは見える。「alone together」っていう言葉があるやろ。同じ部屋にいるのに、それぞれが自分のアルゴリズムに動かされた世界にいる。それは悲しい。
そのノイズに加わりたくない。反対側にいたい。画面を10分だけ置いて、一緒にいる理由になるような物理的なものを作りたい。それが、僕がこれをやる大きな理由の一つ。
大阪から見える景色
大阪は大きい街やねん。人が多い。そして人が多いほど、画面に向かってる子どもたちも多く目にする。電車の中で、カフェで、公園でも。その子たちの生活のほんの一瞬しか見てへんのはわかってる。でもやっぱり、年々増えてるなって思う。
うちは基本的に家では英語で話してる。奥さんも子どもたちも。子どもたちが日本語を使うのは学校や友達とおるとき。家で英語を使うのは、バイリンガルに育てるための戦略やねん。だからうちの絵本コレクションもほとんど英語のもの。
でも日本語の絵本も何冊かあって、同じ本の英語版と日本語版を持ってることもある。それを比べるのがおもろいねん。直訳できひんところとか、文化的なニュアンスが変わるところとか。子どもたちと「間違い探し」みたいに楽しんでる。
日本の絵本と海外の絵本を比べると、文化がちゃんと出てくるんやな。アートスタイルも、色の使い方も、空間の取り方も、話されるテーマも。どっちがいいとか悪いとかちゃう。ただ、文化が物語を通じて自分を表現してるのが見える。子ども向けの本でさえ。それはめっちゃ美しいことやと思う。
雲がぴったりやった
ほんなら、なんで雲なん?
雲って、もともとのオープンエンドの質問やねん。子どもが空を見上げてロケットが見える。別の子はカップケーキが見える。もう一人はドラゴンやって譲らへん。絶対に。そして本を読んでる大人が「うん、カップケーキ、*めっちゃ*見えるわ」って言える。
誰も間違ってへん。正解がない。本は雲が何かを教えへん。空を見せて、余白を残す。読む人が考えを完成させる。
それが僕の言う「参加型」っていうことやねん。読む人と聞く人がおるだけちゃう。一緒に体験を楽しんでる。一緒に想像力を使ってる。ページにあるものを超えていく。
まあ、それは単にいい本のデザインなんやけど、「雲はメタファーです」って言った方がかっこよく聞こえるやろ。)
今、どこにおるか
「Cloudy」はもうすぐ完成。あと数ページ描いたら、表紙デザイン、レイアウト、そしてリリース。あと数週間。その話はまた次回。
今思ってること:誰かがこの本を閉じて「めっちゃ楽しかった」って言ってほしい。一つのページを覚えてて「あのページ、覚えてる?あれよかったな」って。それだけでいい。一つの瞬間。一つの思い出。一つの笑顔。
それが夢の全部。
ほな、また!
ボー
🎧 今週のヘビロテ
Keane「Somewhere Only We Know」🇺🇸 EN version → bodoodles.substack.com
𝕏 → @bodoodlesjpこのニュースレターはAIの翻訳サポートを借りて書いています。中身と気持ちは100%ボーのもの。言葉だけちょっと磨いてもらってます。




